アンダマンニコバル諸島とはインド洋ベンガル湾の北アンダマン島から大ニコバル島まで770kmも続く南北に細長い諸島。インドだがミャンマーのほうが近い。空港のある玄関口の南アンダマン島のポートブレアからインド南部のチェンナイまでの距離は1360km、ミャンマーのミェイは660km。
ポートブレアへのフライトはインド側からしかなく、スパイスジェットなどインドのLCCが片道6000円~で飛んでいる。日本からはバンコク、チェンナイ経由で行く方法が最も安く手間なく行ける。
2020年2月パンデミック直前アンダマンニコバル諸島 ポートブレア ここは掘れば掘るほど味のあるネタが湧いて出るファンキー諸島。
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1943年日本軍の軍政に関与する形で自由インド仮政府設立。地元ではその日がインド連邦国旗が初めて掲揚された日とされている。
自由インド仮政府 インド独立黎明期のアンダマンニコバル諸島
インドのイギリスからの独立は1947年8月15日。インド連邦が設立された。それに先立つ1943年10月21日から1945年8月18日にかけてアンダマンニコバル諸島をその統治の拠点として存在したのが自由インド仮政府だ。独立運動の高まるインドの暫定政府として日本占領下のシンガポールで日本軍の軍政の関与で設立された。最初にインド連邦の三色国旗が翻ったのは1947年のニューデリーではなく1943年のポートブレアだったのだ。
チャンドラ・ボースが国家主席兼首相に就任し、ビハーリー・ボースを最高顧問とした。そして彼らは現地で今もインド独立の英雄とされている。1945年8月15日の日本の敗戦、ポツダム宣言受諾で自由インド仮政府は実質消滅。その後の独立運動でイギリス領インド帝国が解体。パキスタンが1947年8月14日、インド連邦は翌日15日、二国に分かれて独立。後にミャンマー側にある東パキスタンはバングラデシュとして1971年3月26日パキスタンより独立した。
アンダマンニコバル諸島の位置。インドだがミャンマーのほうが近い。先の大戦でインド洋重要軍事拠点とされた。
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YouTubeおとちゃんねる アンダマンニコバル諸島
ポートブレア セルラー刑務所
植民地時代 インド洋島流しの島
イギリス領インド帝国は、1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国。1877年以降はイギリス君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地だった。
1896年イギリスはアンダマン諸島を占領しポートブレアに刑務所を建てた。主に当時の大英帝国に逆らうインドの独立運動家たち(政治犯)が収容された。インド本土から1300kmも離れたアンダマン諸島は島流しの島だったのだ。そしてこの刑務所は後の日本軍にも利用された。現在もセルラー刑務所
Cellular Jail と呼ばれ、その跡地に観光遺跡として当時の建物が残る。
ポートブレアの時計台
北センチネル島米国人殺害事件2018
2018年11月中旬、中国系米国人、アラバマ州出身の宣教師ジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)氏(26)がポートブレアのある南アンダマン島西40km
にある北センチネル島 North Sentinel Island に上陸しようとして現地民に弓矢で射殺された。
北センチネル島には古くから狩猟採集民が暮らし、外部からの接触を拒み、上陸しようとする部外者を弓矢や槍で攻撃してくるという。現地警察も近寄れず遺体はいまだ回収されていないらしい。2006年には2人の地元の漁師が殺害される事件も起きている。
現在現地警察も立ち入ることができず、インド政府も先住民独自の生活様式の保護や疫病対策として、島から5キロ以内への接近は違法としている。
北センチネル島はポートブレアのある南アンダマン島から約40km。チェンナイからのフライトで上空から見ることができる。運行するフェリーはない。右上にわずかに見えるのがハヴロック島。
人喰いワニ注意 シークロコダイル 2020
アンダマンニコバル諸島には海水域に生息するワニが多数生息していて地元の方が襲われて死亡する例も複数あるという。アンダマン諸島ハヴロック島に出現するシークロコダイル
Saltwater crocodile の正体はイリエワニ Crocodylus porosus。爬虫類の中では最大級の一種であり、成長した大人のワニで平均全長4m、体重450kg。巨大な個体は全長7m近くなる。
インド南東部からベトナムにかけてのアジア大陸、スンダ列島からニューギニア島、及びオーストラリア北部沿岸の広い範囲に分布する。日本の奄美大島、西表島、八丈島でも出現例あり。太平洋戦争中のミャンマーのラムリー島で撤退中の日本軍将兵がイリエワニに襲われ、数百人から千人が犠牲になった話が有名。アンダマンニコバル諸島のサンゴ礁ビーチで泳ぐ時には鮫だけでなくワニにも注意が必要だ。
ハヴロック島エレファントビーチ
第2次世界大戦の旧日本軍インド洋戦略
インド独立黎明期と旧日本軍
2020年4月14日(火)
アンダマンニコバル諸島は第2次世界大戦中の日本軍のインド洋戦略の重要拠点でもあった。開戦当初、黎明期のインド独立に貢献した一面はあるものの、日本軍の形勢が悪くなったインパール作戦後の44年~45年にかけての深刻な飢餓状態やスパイ容疑での住民虐殺などの負の一面も多い。
今はビーチリゾートとなっているハヴロック島も「ハヴロック島事件」として歴史上に爪痕を残すその舞台の1つだった。
ハヴロック島 ラダナガルビーチ Andaman Nicobar Archipelago
アンダマンニコバル諸島
Andaman Nicobar Archipelago
1943年ころの日本軍が大英帝国をその勢いでインド洋東方に駆逐していた開戦当初はインド独立運動勢力と良好な関係が築けていた。しかし1944年以降、日本軍の戦況が悪化するにつれ、アンダマンニコバル諸島のインド独立勢力や現地住民との関係も悪化していった。写真右は2020年2月コロナパンデミック前のポートブレア。44年以降日本軍に対するアンダマン諸島住民スパイ疑惑で、疑心暗鬼になった日本軍による現地住民への拷問と処刑、住民虐殺が始まる。第一タマグリ島事件、スチュワードサウンド事件、カーニコバル島事件などで多数の現地住民がスパイ疑惑で処刑される。
またショッキングな戦争犯罪事件として、後方支援を絶たれた食糧難を背景にしたハヴロック島事件も広く知られる。1945年8月初旬、海軍第12特別根拠地隊司令部は、食糧不足解消目的で南アンダマン島の約400人の住民を強制的に当時耕地のない無人島ハヴロック島へ移住させた。終戦後の1945年9月21日にこの措置が戦争犯罪として問題視されることをおそれて救助に行ったところ、住民の餓死体が折り重なっているのを発見。救助された生存者は11名のみだったという。
ハヴロック島 エレファントビーチ
アンダマンニコバル諸島
終戦間際の日本軍地獄の環境
大戦後半日本軍は太平洋戦線で制空権制海権失い、インド洋方面でも戦況は日に日に悪化した。1944年1月アンダマン諸島では食糧は必要量の60%しかなかった。兵員による農耕自給がされたがそれでも追いつかなかった。さらにインパール作戦敗退(44年7月)後、1944年11月には島外からの補給が完全に途絶え、食糧不足による危機的飢餓状態が日本軍と現地住民を襲った。先のハヴロック島事件はこの時期に起こった。
加えてこのころ日本軍にマラリアとアメーバ赤痢が蔓延し、多くの死者を出した。そしてこの惨状は終戦まで続いた。
日本人にとっては最も遠いインド。アンダマンニコバル諸島は2020年4月現在コロナショックでリゾートとしては機能していないが、終息すればまたインド富裕層のハワイとして復活をするであろう。ハヴロック島は日本人にはあまり知られていないが欧米旅行者には知られたリゾートで、彼らを迎えるリゾートホテルも多数ある。しかしその影にはこういう歴史的背景があったのだ。
ポートブレア
びー旅つぶやき
11:35 2020/04/12
部屋にこもる。飯がうまい。これじゃあせっかくやせたのにまたメタボへの道まっしぐら。「コロナ太り」は「モルディブダイエット」の対極のいやな言葉だ。部屋で腕立て伏せや腹筋は限界あるし。食べることしか楽しみがない状況は悲しい。
先月まで海外を飛び回っていていたのが嘘のよう。私はもともと国内では引きこもりでさらに自炊派なので、スーパーさえ開いていれば何の支障もない。吉野家もマックもファミレスも居酒屋も全く利用しない。コンビニも三和より高いので縁がない。コロナショック渦中でもいつもとあまり変わりない生活。私はもともと目黒でサバイバル生活をしていたってこと?確かにトマト1個が150円する生活はある意味サバイバルだ。昨日祐天寺の三和で90円(3個税別250円)で買ったけど。1カ月前までは1個3円だったのに。
チェンナイセントラル駅裏八百屋のおばちゃんはタミル語オンリー。
18:54 2020/04/07
東京に非常事態宣言。安倍さんや小池さんの要請に従って部屋にこもる日々。帰国から3週間たっているが咳や熱はなく全くの健康体。
コロナは感染しても8割は軽い症状か無症状。重症化への分岐は加齢や持病、既往症などによるらしいが、遺伝的な要因もある感じ。持病などで抵抗力がなくなっていると重症化するとのことだが、その裏にうっすらと感じるのが喫煙や飲酒。ヘビースモーカーや大酒のみ習慣が加齢などの他の要因とともにウィルスとの戦闘能力を失わせている気配。
学生時代、ヘビースモーカー自慢や、一晩でボトル何本あかした酒豪自慢をする先輩や友人は少なくなかった。飲めない私は彼らをただうらやましく思うだけだった。しかし年取ってコロナの2割の餌食になるのが結末ならやっぱりかなしい。飲酒は適量なら問題ないというが、ほとんどの飲む方は適量ですんでないような気はするのは気のせいか。私はこの4カ月の旅の間、イスラム圏も混じっていたせいもあり酒は全く飲まず。コロナ騒動前のパタヤでもバンコクでもバーにはいかなかった。おととい半年ぶりで1人部屋でウィスキー水割り1杯だけ飲んだ。私は基本酒もたばこもやらないが、六本木で遊んでいた頃の名残で半年に1度くらい水割りをのむ時がある。そのペースなので免税店で買ったオールドパーが何年も減らない。
ハヴロック島ラダナガルビーチ